成功者には二つのタイプがあります。
一つは生まれ持った才能を遺憾なく発揮し、素直に才能を伸ばした結果、成功を手に入れる人。
もう一つは自分の好きな分野を突き詰めて行き、気づいたらその業界のトップになっていたという人。
ファッション界での成功者は数多くいますが、唯一無二の存在感を誇るのは、モードの帝王「アルマーニ」です。
アルマーニがどちらのタイプの成功者かと問われると、正直迷うところです。
なぜかといえば、生まれ持った才能がそのまま彼の好きなことだからです。
それは人間として生まれてくる中ではとてつもなく一番幸せなことだと羨ましい気持ちにもなりますね。
しかし、天才には天才なりの苦労や、人生での越えるべき大きな山もありました。
ここではアルマーニという人物の生涯について、解説して行きます。
アルマーニの歴史|生い立ち
アルマーニは1934年7月11日、イタリア北部のピアチェンツァという街に生まれました。
ピアチェンツァはご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、イタリア最古のウール発祥の地で、土地の名前をそのままブランド名にしたピアチェンツァ社はあまりにも有名です。
また、この土地は中世と深く結びつきのある歴史ある街でもあり、華やかな歴史や教会の歴史、そして人民投票の果てにイタリア王国に併合した歴史も併せ持つ、ミラノからも程近い都心部でした。
現在でもイタリアの主要観光地として栄えています。
そんなピアチェンツァに生まれ育ったジョルジオ・アルマーニですが、生誕したのはちょうど第二次世界大戦が始まる直前でした。
戦時下で何もなかった時代、幼かったジョルジオの唯一の楽しみは映画だったと言います。
スクリーンの中で繰り広げられる華やかな世界が、彼の豊かなイメージ力を育んだ原因の一つになっていることは明らかです。
また、ジョルジオには兄のセルジオ、妹のロザンナの兄弟がいましたが、母親は物のないこの時代でも、パラシュートの布地や軍服などを解いては、兄弟たちのために上手に衣服を作っていました。
ジョルジオが最も服作りで影響を受けたのが、この母親だったと言われています。
また、当時ファシスト党員だった父親の制服も、幼いジョルジオの感性を自然に育んだのでしょう。
高校時代には、早くもその才能の片鱗が見えていたと言われています。
というのも、当時他の生徒たちは親から見繕ってもらった服をそのまま着ていたのに対し、ジョルジオは折り返しのないズボンやカットソーを着ていたというのです。
さらに、行きつけのテイラーまであったというから驚きです。
こうした美的感覚を持っていただけでなく、しっかりと楽しんでいたにもかかわらず、非情な時代背景により、ジョルジオ自身もその才能を将来に生かそうとは考えませんでした。
ジョルジオは医師を目指し、ミラノ大学医学部に進学します。
しかし、兵役中に召集され、そのまま中退しました。
この間、恋人の事故死に遭遇するなど、悲しい経験もしていたそうです。
アルマーニの歴史|キャリアの始まり
兵役につき中退した彼は、ファッションとはまるで違った道をさまよっていました。
休暇の折にはマメに職探しをし、幼馴染にそのことを相談すると、ミラノの大手百貨店「リナシェンテ」で人材を募集しているという情報を得ます。
1957年、兵役を終えたアルマーニは、運よくリナシェンテに就職することができました。
リナシェンテはドゥオーモ広場に位置し、現在では地元の人だけでなく観光客にも人気のある百貨店ですが、元はごく一般的な物品を取り扱う大きな百貨店でしかありませんでした。
しかし、ちょうどアルマーニが入社したその頃、経営転換を図ろうとしていた時期で、彼はとても良いタイミングで入社したことになります。
アルマーニはリナシェンテでバイヤーとして配属され、紳士服の買い付けやショーウィンドウのデコレーション、写真家のアシスタントなど様々な業務をこなし、ファッション業界の流通などを自然と身につけて行きました。
アルマーニがその才能を最も発揮したのは紳士服の買い付けで、ロンドンから輸入したツイードのジャケットとのコーディネートです。
彼は仕事の中で業務を学びつつ、才能も徐々に開花させていきました。
消費者の求めるデザインや素材に詳しくなり、また生産工程や流通にも通じ、豊富な知識のあったアルマーニは、31歳の時、人気デザイナーニノ・セルッティにスカウトされ、メンズウェア「ヒットマン」のデザイナーに就任します。
ヒットマンではスーツの内部構造を取り払ったソフトなジャケットを提案し、それまでのフォーマルなスーツしかなかったスーツ業界のイメージを一新することに成功しました。
このヒットマンで、ニノ・セルッティからデザインを学び、今日のアルマーニのデザインの土台を固めることになりました。
また、服作りだけでなくプロモーションにも力を入れ、広告キャンペーンにも携わり、斬新な試みで広告業界に一石を投じます。
結果的には大成功を収め、じりじりとその名を広めていきました。
そんな彼の成功を妬む者も現れ、ヒットマンの中では成功者のみが経験する特有の苦労もあったようです。
ヒットマンでの8年間は、アルマーニの人間形成の上でも大きな時期でした。
また、その頃にはヒットマンだけでなく、モンテドーロやシコンズなどの他ブランドのデザインにも関わり、ヴォーグ創刊初期には編集者だったボリオリとともに編集にも携わるなど、幅広く活躍するようになっています。
そして34歳の時、10歳年下の建築家、セルジオ・ガレオッティ運命的な出会いをします。
アルマーニの歴史|世界進出
セルジオ・ガレオッティはアルマーニを語る上でなくてはならない人物です。
セルジオはアルマーニに熱心に独立を勧め、のちに公私ともに片腕となった人。
ヒットマンでの活動に限界を感じていたアルマーニは、セルジオの説得によりミラノに小さなオフィスを構えました。
最初はそこでブランドデザインなどの依頼をこなしていましたが、1975年、初のメンズコレクションを発表します。
アルマーニはゆるくエレガントで着やすいメンズウェアを提唱し、それまでの堅苦しいメンズウェアのイメージを一新して新たなメンズファッションのスタイルを確立させました。
ヒットマン時代、すでに名声を得ていたアルマーニは大成功を収め、さらにその3ヶ月後にはレディス・コレクションを発表し、男女の枠を取り払ったユニセックスなレディースウェアが世にお披露目されたのです。
この時代、アメリカではフェミニズムが盛んになり、雇用の上でも女性が社会進出を果たしていました。
アルマーニの機能的でシンプルなレディーススーツは、この時代の女性たちから諸手を挙げて歓迎され、その評判を知ったアメリカのバーニーズ社が自ら視察に訪れて契約したという逸話も残っています。
アルマーニブランドは創業からたった1年で急成長を遂げ、その後も着々とファッション業界で活躍の幅を広げていきました。
1978年にアカデミー賞を受賞したダイアナ・キートンがアルマーニのジャケットを着て舞台に上がり、ついにその名を国際的なものへと高めたのです。
また、映画界でもアルマーニは多くの衣装担当をすることになりました。
1980年アメリカン・ジゴロのリチャード・ギア、1987年アンタッチャブルのケビン・コスナーの衣装を担当したほか、友人のスコセッシ監督がアルマーニ自信を描いたミニフィルム「Made in Milan」を製作しました。
顧客リストにはダスティン・ホフマンやダイアナ・ロス、ジャック・ニコルソンなどのセレブの名が並び、特にジョディ・フォスターやラッセル・クロウ、ロバート・デニーロからは熱烈な支持を受けるに至っています。
80年代といえば、日本でもバブルの時代で、世界的にも混沌とした時代でした。
派手なファッションが流行り、大きな肩パッドの入ったスーツやショッキングピンクや黄色の衣服が好まれました。
そんな中でも自分の姿勢を貫いたのがアルマーニです。
流行を遠目に眺めながら、着心地の良い服を作り続け、それが当時タイムズ誌の映画・音楽評論家をしていた脚本家のジェイ・コックスの目にとまりました。
そして、1982年、タイムズ誌の表紙を飾るという快挙を成し遂げます。
ファッションデザイナーとしてタイムズ誌の表紙を飾るのは、クリスチャン・ディオール以来のことで、大変なことでした。
このタイムズ誌への掲載で直営店の展開も開始することになり、アルマーニの売り上げは一気に3倍へと跳ね上がったと言います。
創業してわずか数年で次々と斬新なアイデアを世に送り、順調にトップデザイナーへの道を駆け上がった彼は、ついには「モード界の帝王」と呼ばれるまでに成長しました。
そんなアルマーニの活躍を陰で支え続けたのが、セルジオでした。
セルジオは創業当初からマネジメント全般を一手に引き受け、アルマーニがクリエイティブな活動をのびのびとできるよう支援しています。
アルマーニブランドはセルジオ無くしては成り立たず、またプライベート面でも良きパートナーとして大きな存在となっていました。
アルマーニの歴史|突然のパートナーの死
何もかもが順調に思えたアルマーニですが、1985年、最大の親友であるセルジオ・ガルレオッティを失くしてしまいます。
セルジオは40歳という若さで病に倒れ、急死するのです。
アルマーニの経営や対外的な仕事を一気に引き受け、またプライベートでも恋人だった時期もある親友のセルジオの死は、アルマーニを打ちのめしました。
そのあまりのショックに一時期は世捨て人のような生活を送ったと言われています。
しかし、しばらくするとアルマーニはゼロからの再出発を決意し、見事復活を遂げました。
それまでクリエイティブなことにしか従事せず、経営に関しては全くの素人だったアルマーニは、約1年かけて研究し、なんと全業務を掌握するまでに至り、クリエイターと経営者という二つの顔を持つことになります。
その努力は常人の想像を絶するほどだったことでしょう。
自分自身と戦いながら運命を切り拓いたその姿勢と努力は、ただの天才ではないことを改めて感じさせてくれます。
こうしてアルマーニは、見事再生したのです。
アルマーニの歴史|激動の80年代から現代まで
80年代は世界的にも浮き足立った感がありましたが、その後は新しい時代が到来しました。
それまで流行していたラグジュアリーファッションが落ちこみ、時代の流れが一気に変わったのです。
80年代、流行に翻弄されず自分の服作りを続けたアルマーニは、アメリカ・ファッションデザイナー協議会から「最高賞」を贈られ、イタリア政府からはイタリア共和国功労勲章「コメンダトーレ賞」、その最高位「グランデ・ウッフィチャーレ賞」「共和国功労勲章」「大騎士賞」を続けて授与するなど、多数の賞を授与しています。
80年代が終わり新しい時代が来ると、アルマーニはもはや最先端ではなくなっていましたが、その後も独自の服作りを続け、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートから名誉博士号を贈られました。
また、ハリウッドスターは益々アルマーニを好む傾向が強まり、オスカー賞の授賞式ではアルマーニ一色になることもあったとのことで、ついには「アルマーニ賞」と別名がついたほどです。
90年代にはアジア市場が活発になり、日本や中国に進出し、大歓迎されました。
その後も世界中に直営店を次々と展開し、直営店だけでも200店舗近くになり、従業員も2500人を超える大所帯となります。
取り扱うアイテムも、メンズ、レディース、フレグランス、ジーンズ、スポーツウェアをはじめ、ネクタイ、時計、シューズにまで至ります。
唯一アルマーニの哲学により、レザーやファーアイテムはほとんど取り扱っていないのが印象的です。
また、多くのラグジュアリーブランドが買収合併されましたが、そんな中でもアルマーニは台風の圏外に位置するように、無風状態で時代を駆け抜けました。
その後はもはや生きた伝説となり、数々の輝かしいエピソードを残し続けています。
その一つにニューヨークのグッゲンハイム美術館がアルマーニの回顧展を開き500点以上を展示したという事実があります。
有名美術館がファッションデザイナーの回顧展を開くというのは、前代未聞のこと。
さらに、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ローマ国立博物館、東京やロサンゼルス、上海、ミラノでも、このジョルジュ・アルマーニ展が開かれました。
2001年には日本を代表する建築家、安藤忠雄氏の手によるアルマーニ・テアトロをオープンさせ、2005年にはオートクチュールライン「アルマーニ・プリヴェ」を発表します。
さらに2006年にはメンズオーダーのライン「ハンド。メイド・トゥ・メジャー」を発表するなど、世間をアッと言わせ続けています。
アルマーニの人物像|完璧主義
ちょっとでもミスしたらジョルジオに殺される・・・そんな物騒な言葉がスタッフの間で囁かれるほど、アルマーニは完璧主義で知られています。
アルマーニは人に厳しいだけでなく、自分にも人一倍厳しいので、スタッフからは尊敬されているとか。
また、自分の確固たる主張も持っていて、違うと思ったことは口に出す、行動する人として知られています。
80年代のファッション業界が沸騰していた時代では、行き過ぎた装飾や実態のそぐわない見せかけだけのショーを厳しく批判しています。
90年代に入ると自らを「抗議する人」と呼び、ファッション界の目を覚まさせるために嫌われ役も買って出ました。
長いものに巻かれないんですね。
この潔い姿勢が、尊敬を集めているのかもしれません。
もちろんこの妥協しない姿勢は、アルマーニの服の随所にも観ることができます。
アルマーニの人物像|宿敵のライバル
アルマーニの宿命のライバルは、同世代のヴェルサーチでした。
ヴェルサーチはアルマーニとは真逆の、派手でカラフルな時代の先端を行くブランドを展開していたことで有名ですよね。
シックで落ち着いた色合い、無駄を極限まで削ぎ落としたシンプルさを大切にしていたアルマーニとは、まさに対照的だったのです。
しばしば両者がデザインをコピーしたと言っては訴訟しあったり、インタビューで批判しあったりしているのは業界でも有名でした。
しかし、アルマーニとは犬猿の仲に思われていたヴェルサーチですが、1997年にマイアミで射殺されると、アルマーニが葬儀に駆けつけたというエピソードが残っています。
犬猿とは言いながら、実はお互いのこともしっかりと認めていたんですね。
アルマーニは人を褒めないことでも知られるほどの完璧主義者ですが、決して傲慢ではありません。
その証拠にイッセー・ミヤケやゴルチェなどの独創性は高く評価していました。
また、ドルチェ&ガッバーニのショーなどは、自ら率先して観に行ったと言われています。
アルマーニの人物像|現在のスタンダードの意味の親
現在当たり前のように着ているベーシックなジャケットやスーツは、アルマーニが作り出して来たと言っても過言ではありません。
アルマーニが新しいジャケットを発表するまでは、ジャケットはとても堅苦しい構造でした。
アルマーニは一枚の布をモデルの体にかけ、動きに即したジャケットを作るために試行錯誤を繰り返しました。
その結果、個性的で自分らしい、柔らかなジャケットを作り上げたのです。
軽さ、動きやすさ、緩やかなエレガントという今までの堅苦しさから解放されたジャケットは、時代の最先端を行くアーティストや建築家、俳優などに支持され、やがて世界に広まっていきました。
また、今では通勤着・オフィスウェアとして浸透しているレディーススーツも、アルマーニが既存のレディースファッションから過剰な装飾を取り除いたことから始まっています。
あまり知られていない事実かもしれませんが、今日のファッションのスタンダードはアルマーニが作り上げたものが多く、伝説と呼ばれるのもごく当たり前のことなのです。
アルマーニの経営|パートナー、セルジオ
アルマーニが押しも押されもせぬ世界のトップにまで駆け上がって来られたのは、もちろんアルマーニ自身の力ですが、それを支えて来たセルジオの存在も欠かせないものでした。
セルジオの人物像を語るとき、よく「ポジティブ」で「情熱的」、そして「陽気」という言葉が使われます。
魅力的な人物だったのでしょう。
彼はアルマーニより10歳年下で、アルマーニがヒットマンにいる時からその才能を見抜き、1975年に共同でブランドを設立しました。
セルジオはミラノの建築家でしたが、テキスタイルの輸入や生地メーカーのラルスアーニが運営するラルスにも勤めていた経緯があり、そんな中でアルマーニを見初めたようです。
会社を設立すると、アルマーニにはデザインに集中させ、自分は経営に関する一切のことを引き受けました。
面白いことには、セルジオはそれまで営業経験が全くなく、アルマーニと同じく英語が話せなかったと言います。
しかし、経営手腕は相当のもので、アルマーニの才能を遺憾なく発揮させながら、めきめきと大型契約を取り付けていきました。
アルマーニの経営|独自戦略
アルマーニが成功したのは、莫大なコストをかけた広告戦略にありました。
通常は利益がないと広告が打てないのですが、セルジオはファッション誌がブランドに多大な影響を与えていると確信しており、利益の半分を費やしてでも広告を出し続けました。
例えば創業10周年の際には雑誌の広告欄を10ページも買取り、アルマーニとセルジオのインタビューで社史を語ったり、週刊誌のパノラマでは広告スペースをアルマーニが占領したりするなど斬新な戦略を打ち出しています。
また、90年代後半にはさらに国際的な月刊誌、週刊誌、日刊紙全ての広告欄を買い取り、どこを開いてもアルマーニ一色にしました。
現在ではスタンダードになっている、街頭の壁面広告もアルマーニが初めて行ったものです。
現在では当たり前になっている広告手法も、アルマーニが始めてスタンダードになったことが多いのは驚きですね。
また、ライセンス生産という単語も「メイドインイタリー」という言葉もなかった時代、アルマーニはいち早くライセンス提携を思いつき、ラベルにメイドインイタリーを入れました。
そのことで、産業革命によって成長がストップしていたと思われたイタリアのテキスタイル業界に息を吹き返させました。
また、その頃は営業マンが顧客を一軒一軒回って売り歩いていたセールススタイルを、ショールームを取り入れることによって変革しました。
ただし、ライセンス生産はコピーを作れてしまうという難点もありました。
ライセンス生産が一般化してくると、どのブランドもコピー対策に必死になりましたが、アルマーニが打ち出した答えは、「コピーできないような高度な技術を必要とする製品を作ること」でした。
こうした数々の経営戦略をセルジオが行ったおかげと、アルマーニのデザイン力との相乗効果で、ブランドは急成長したのです。
アルマーニブランドの経営戦略は、常に革新に満ちたもので、それはセルジオ没後のアルマーニ本人もそのあとを引き継ぎ、素晴らしい戦略を推し進めています。
アルマーニの経営|ビジネス展開
創業から40年、アルマーニはファッションのみならず、多角的な経営を展開しています。
例えばインテリアを手がける「アルマーニ・カーサ」、ホテル事業、レストラン・カフェ事業、コスメ・香水事業フラワーアレンジメント事業、そしてチョコレート事業に至るまで、多岐にわたっているのです。
アルマーニまとめ
戦時下に生まれ育ち、それでも運命に導かれるようにファッションデザイナーとしてその才能を開花させたアルマーニ。
大手百貨店で下積みを経験し、生産や流通、消費者の需要などをしっかりと身につけたあと、スカウトという形でのちのパートナーとなる建築家セルジオに見出され、やがてオリジナルブランドを立ち上げました。
ブランド創立後はセルジオの経営手腕とアルマーニの革新的なデザインが相乗効果をもたらし、短期間で一気にファッション界のトップへと駆け登ります。
激動の80年代も流行に翻弄されることなく独自の路線を貫き通し、その後はその姿勢が多くの人に支持され、「モード界の帝王」と呼ばれるまでになりました。
その服作りは完璧で、少しの妥協も許さず、またファッション業界に喝を入れる役目も自ら率先して引き受けています。
そんな完璧に見えるアルマーニも、親友で公私ともにパートナーだったセルジオを失ってからは、一時ブランドの崩壊が危ぶまれるほどの危機に陥りますが、一念発起して見事ブランドを立ち直らせます。
しかも、経営をゼロから勉強し、ついにはセルジオの代わりとして、一人でブランドの全ての業務を把握できるようになったのです。
天性の才能と、それに甘んじることなく惜しみなく努力したアルマーニは、その強靭な精神で成功を勝ち取ったのです。
アルマーニこそ、尊敬すべき成功者と言えますね。