ウィンザーノット、ウィンザーカラー。
ファッションで度々出てくるウィンザーという単語ですが、実は一人の人物から派生しています。
おしゃれと歴史が好きなあなたなら、ここまで聞けば好奇心の芽がムクムクと心の中に芽吹いてきたかもしれませんね。
人物の正体はウィンザー公、イギリスの貴族で王になった人です。
ウィンザー公といえば、20世紀最大のファッションリーダーとして語り継がれる人物。
ウィンザー公はオシャレに関してどんな歴史に名を残す偉業をやり遂げたのか。
ウィンザー公とはどんな人物だったのか。
ここではウィンザー公について、徹底解説していきます。
ウィンザー公の生い立ちとその生涯
ウィンザー公の呼び名は、彼が王位を退位してからの名称で、元々は王家に生まれた正式な王位継承権を持った人です。
正式名は「エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド・ウィンザー」。
イギリス王朝の長い歴史から、4人の守護聖人や曾祖父、の名前がつけられ、曾祖母ヴィクトリア女王からの強い意見でアルバートが入れられた結果、このような長い名前になったんだとか。
「じゅげむじゅげむ」のような長い名前ですが、一般的には「エドワード8世」として呼ばれていました。
また、家族や友人からは、最後の洗礼名である「デイヴィッド」と呼ばれていたそうです。
ここでは便宜上、王位を退位するまで「エドワード」と呼ぶことにします。
出生と少年時代
1894年、エドワードは当時ヨーク公だったジョージ王子(後にジョージ5世)とメアリー妃の第一子として生まれます。
下にジョージ6世、グロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ、そして妹はーウッド伯爵夫人メアリーがいました。
様々な史実にも記されているように、イギリス上流階級の常として、上流階級の家庭に生まれた子どもは、両親ではなく乳母に育てられます。
エドワードも例外ではなく、乳母に育てられました。
しかし、これも記録に残っていることですが、弟のアルバート(ジョージ6世)とともに、しつけとは言い難いほどの厳しい教育を施されていました。
両親が不在のたびに体を強くつねられることもあり、エドワードが異常なまでに泣き叫ぶのを聞いて両親が慌てて飛んできて、乳母を追い出したこともあるといいます。
このように、13歳になるまで自宅で乳母や家庭教師によって、厳格な教育を受けていました。
1907年からは、軍事を学ぶため、オズボーン海軍兵学校に入学します。
しかし、そこで待ち受けていたのは、厳しいトレーニングとスパルタ教育、苦手な数学で休日に施される補習授業、一向に馴染めない寮生活などでした。
その頃のエドワード少年は、祖父エドワード7世にしばしば涙ながらに愚痴をこぼすこともあったようです。
オズボーンでの2年間が終了すると、ダートマス海軍兵学校に移ります。
ここでも2年間の教育を受けることになりますが、ここで同級生からのいじめにあうなど、辛い経験をしました。
エドワード本人も、この頃すでに自分には海軍士官としての素質がないことを自覚していたといいます。
1910年、エドワード7世が亡くなると、立場が繰り上がり王太子「プリンス・オブ・ウェールズ」となりました。
将来国王となるため、エドワードは軍事よりも学問を学ぶ必要があるとされ、兵学校を卒業することなく、研修を経て士官候補生という形をつけ兵学校を後にします。
1911年にオックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学しましたが、ここでも正式な過程は経ずに修了しました。
上流家庭に生まれても、乳母の異様なまでの厳しいしつけや望まない教育をしいられ、同級生のいじめに遭うなど、決して順風満帆とは言えない人生のスタートだったようです。
プリンス・オブ・ウェールズ時代
エドワードは1910年5月にロスシー公並びにコーンウォール公、6月にプリンス・オブ・ウェールズ並びにチェスター伯となり、翌年の1911年、ウェールズのカーナーヴォン城にて叙位式が執り行われました。
その際ウェールズ語で当時を述べ、イギリス王太子が「プリンス・オブ・ウェールズ」と称されることを意識し、これ以降のプリンス・オブ・ウェールズの答辞として定着させたとされています。
ウェールズは最も早くイングランドと友好関係になったため、イングランドが敬意を表し、次期国王の称号にウェールズの地名をつけたとのことです。
この頃世界では第一次世界大戦が勃発し、軍に志願できる年齢になっていたエドワードは入隊を熱望します。
その理由は「ノブレス・オブリゲーション」、高貴な立場の者は、より大きな責任を果たすべきとするヨーロッパ王侯貴族の価値観にあったとされています。
しかし、王位継承権第一位であるプリンス・オブ・ウェールズが万が一捕虜となる事態となってはイギリスにとって一大事だと懸念したことから、入隊は拒否されました。
それでもエドワードは可能な限り最前線にも慰問に訪れます。
このことにより1916年にはミリタリー・クロスを授与され、「肝の座った王子様」として、のちに軍人から絶大な人気を誇ることになりました。
また、1918年には空軍で初の飛行を行い、パイロットライセンスも取得しています。
終戦後は精力的に外交活動を行っており、自国領や植民地を訪問してイギリスへの反発の緩和をしました。
また、世界各国へも歴訪し、訪問先で度々熱烈な歓迎を受けています。
そのため、時の首相ロイド・ジョージ首相からは、「我々の最も素晴らしい大使」と評されました。
エドワードは日本へも訪問しています。
昭和天皇の訪欧の返礼として1922年に来日し、4月18日にはイギリス王族として初めて靖国神社に参拝したほか、大阪で電車にも乗車しました。
一方では、失業問題や労働者問題にも関心を寄せ、一般市民と気さくに言葉を交わしたり、タバコを吸っているところを新聞社に取らせたりしました。
また、オックスフォード大学在学中には王政を否定する共和主義の歌を歌ったり、ロンドンの高級レストランで食事を拒否されたオーストラリアの兵隊たちを自分のテーブルに招いて食事を振る舞ったりするなど、世間を惹きつけるエピソードには事欠きません。
そのためマスコミからは「比類なき君主制どのPRマン」などと呼ばれていたそうです。
しかし、時にはアボリジニに対して人種差別的発言をするなど、物議を醸し出すこともありました。
王冠をかけた恋
大学時代には自由奔放に過ごしていたエドワードですが、恋愛においてもヨーロッパ屈指のプレイボーイと称されるほどでした。
お相手には14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード下院議員夫人、黒人歌手のフローレンス・ミルズ、エドワードとの暴露本を書いて一躍有名になったテルマ・ファーネスなどが知られています。
持って生まれた美しいその風貌と女性遍歴から、「プリンス・チャーミング」「世界で一番魅力的な独身男性」などと評されたこともあったようです。
そんな中、後に「王冠をかけた恋」のお相手として知られることになる、ウォリス・シンプソンとの交際が始まります。
アメリカ人のウォリスは離婚歴があり、交際がスタートした当時はまだ人妻でもありました。
母親からの愛情に恵まれず、その欠落感を年上の女性に求めがちだったエドワードは、自由奔放で博学、しかも母性を感じさせるウォリスに大変な魅力を感じ、真剣に結婚を考えるようになります。
イングランド国教会が離婚を禁止しているにもかかわらず、エドワードはウォリスを離婚させて妃として迎えようとしていました。
しかし、次期国王であるエドワードのこの行為は、身分を問わない大多数の国民から反発を買うこととなります。
イングランド連合王国の国王は国教会首長を兼務する習わしがあり、立場上許されるものではなかったからです。
この事態を憂慮したジョージ5世とエドワードの間にはいい争いが絶えず、決裂したままジョージ5世は死去します。
1936年、エドワードは独身のまま王位を継承し、「エドワード8世」となりました。
しかし王位についてからというもの、ウォリスと自分との関係を世間に認めさせようと過剰な行動を起こします。
そのエピソードとは、王室所有のヨットで約1ヶ月間もの間ウォリスとバカンスを楽しんだり、ペアルックのセーター姿で公の場に登場したりといった、世間にアピールするものでした。
また、当時のボールドウィン首相が出席するパーティーの席でウォリスの夫に対して離婚するよう恫喝したり、暴行まで加えるといった騒ぎを引き起こしたりもしています。
この頃にはアドルフ・ヒトラーとも親しくしており、国内に反発勢力を生み出すことになりました。
そしてこうしたウォリスがらみの行動がエスカレートし、ついにはボールドウィン首相から退位を迫られます。
これをきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月10日に正式に発表しました。
この一連の騒動で国内ではウォリスとの結婚を取り消すだろうという噂や退位は確実だという噂が飛び交い騒然となり、日本でも各新聞社の夕刊がこぞってこのニュースをトップで報道したりしました。
また、この退位発表の影響で電話回線はパンクし、ビジネス界隈では経済変動の対策に追われ、ロンドン市街地では商業施設の機能が停止し、群衆がバッキンガム宮殿に殺到するなど、ロンドンは大混乱に陥ったと言います。
そして翌12月11日にBBCラジオの放送を通じで、有名な演説を行いました。
内容は、王位を継承するヨーク公への忠誠と、王位を去ってもイギリスの繁栄を祈る心に変わりはないこと、そして王である前に一人の男性であり自分の心に従うこと、ウォリスとの結婚のために退位することに後悔はしないことなどです。
この一連の出来事は「王冠をかけた恋」と呼ばれ、後世に語り継がれています。
在位日数はわずか325日、この放送の後身辺を整理し、12日にイギリスを離れました。
その後はオーストラリアに渡り、祖父の代から親密だったロスチャイルド家が用意したエンツェスフェルト城に身を寄せたあとフランスへ渡り、1937年に「ウィンザー公」の称号を授与されます。
そして、5月にはウォリスと再会して正式に結婚します。
ここまでは美しい悲恋物語とされていましたが、これには後日談があります。
60年後の1990年代になって、「ドイツ外交文書集1918-45(Documents on German foreign policy 1918-1945)」という本の隠されていた一部の文書が明らかになり、エドワード8世の真実が白日の下に晒されたのです。
イギリス諜報部の資料から、ウォリスはナチスのリッペンドロップトのエージェントで深い関係でもあり、ナチス諜報部の職業的工作員であったことが判明しました。
これを嗅ぐつけたイギリスの諜報部が、エドワード8世とウォリスの結婚でイギリスがナチスに傾倒し、国の進路を誤るのではないかと危惧した末、悲恋物語というストーリーを利用して体良く王位を去らせたというわけです。
事実、ウィンザー公となった1937年に、イギリスの忠告を無視して、夫妻でヒトラーの招待を受けてドイツを訪問し、ヒトラーの山荘に滞在しています。
夫妻のドイツ訪問はドイツのメディアで大々的に報道され、滞在中はナチス式の敬礼で通していました。
ドイツによるヨーロッパへの勢力拡大に伴って、イギリスとドイツの関係が緊迫したものになってもウィンザー公夫妻は度々ドイツを訪問したため、慌てたイギリスはウィンザー公をフランスの軍事作戦に従軍する少尉に任命し、フランスへと移動させます。
しかし、その後もドイツとの和平を勧めるなどしたため、当時のチャーチル首相はウィンザー公をイギリス植民地でヨーロッパの戦線から遠く離れたバハマへ、総督として任命しました。
また、ヘルマン・ゲーリングと「ドイツが勝利したらイギリス国王に返り咲かせる」という密約を結んだ上イギリスの情報をドイツに流していたという疑惑が上がり、アメリカでFBIの監視下に置かれていたとも言います。
イギリスの大手新聞「ガーディアン」が、1995年11月にこの事実を「カイザー・エドワード」と題して記事に掲載、同じく「オブザーバー」が「ウィンザー王室の恥—ナチスとの協力」と題して60年ぶりに真実の歴史が報じられました。
とはいえ、イギリス政府はイギリスの公文書を「2044年まで非公開」とし、未だに口を開いてはいません。
そして、当のウィンザー公、エドワードは、ウォリスとナチスとの後ろ暗い関係については当時全く知らなかったそうで、後のテレビインタビューではこう答えています。
「もし時計の針を下に戻せても、私は同じ道を選んだでしょう」。
ウィンザー公が発明したファション
ウィンザー公が考え出したファッションというより、初めに装って流行したといったほうがいいかもしれません。
ウィンザー公は、プリンス・オブ・ウェールズ時代から多趣味で知られ、刺繍、乗馬、キツネ狩り、バグパイプの演奏、ガーデニングにゴルフなど様々な遊びをしていました。
また、ヨーロッパ屈指のプレイボーイとしても有名で、多趣味であることと恋愛の名手であったことも、ファッション好きになる一因だと思われます。
イギリス発祥のビジネススーツですが、1900年代初頭に主流だったのは3〜4つボタンでした。
今はスーツの一番下のボタンをかけない着方が主流になっていますが、当時は下まで全てかける着方だったようです。
1920年〜30年代になるとスーツのデザインが大きく変わりますが、当時のファッションに多大な影響を及ぼしたのが、ウィンザー公でした。
ウィンザー公が好んで着用したデザインのスーツは、イギリスやアメリカで大流行し、イングリッシュ・ドレープ・スーツと称されます。
それまでのスーツは4つボタンも多く見られましたが、この頃からフロントボタンは2〜3個に定着したとのこと。
また、スーツ自体のデザインも、フロントラインがウエストから裾にかけてゆるくカーブを描くように広がり、一番下のボタンは実質かけられないデザインになりました。
これが、今日でも一番下のボタンはかけない着方が定着した由来と言われています。
アメリカの業者向け商品目録には、「シングルの場合は2個ボタンか3個ボタン。2個ボタンの上のボタンはウエストラインの位置につけられかけられるが、下のボタンはかけない」と記載されていたとのこと。
また、シャツに関しても逸話が残っています。
ウィンザー公は、当時としては珍しい襟の大きなワイドスプレッドカラーシャツを着用していたので、このシャツは彼の名前を取って「ウィンザーカラーシャツ」とも呼ばれるようになりました。
ちなみに、アメリカントラッドは、ウィンザー公が1924年に初めてアメリカを訪れた際に大きく影響を受けたことが由来とされています。
また、ハバナなどの暑い地域にいた際には、アメリカントラッドが生まれるずっと前から、開襟シャツを愛用していたことはあまりにも有名。
さらに、当時は普段着として着用していたセーターを、ゴルフウェアとして着たり、彼流のネクタイの結び方をウィンザーノットと呼ばれたりするようにもなりました。
20世紀最大のファッションリーダー、トレンドセッターとして流しられているのは、こうしたファッションに関する数々のエピソードを残しているからなのです。
ウィンザー公をリスペクトしている人
現在でもウィンザー公をリスペクトしている人は数多くいます。
その筆頭とも言えるのが、デザイナー「アラン・フラッサー」。
アラン・フラッサーは大学卒業後にスタイリスト、デザーナーを経て独立し、映画「ウォール街」のマイケル・ダグラスの衣装を担当したほか、多くのメンズファッションの賞を受賞するという経歴を持っています。
アラン・フラッサーの服装哲学は、ブルック・ブラザーズなどに代表されるアメリカントラッドをベースにした正統派ファッションで、1985年、2002年と正当な服飾基準を説いたハードカバーの本を出版しています。
ウィンザー公が愛した○○
ファッションにおいてトレンドの発信基地だったウィンザー公が身につけるものは、どこででもすぐに大流行となりました。
ここではウィンザー公が愛したものたちをご紹介します。
ツートンのコインローファー
ウィンザー公は白と茶色のツートンカラーのコインローファーを愛用していました。
彼は、常識にとらわれず、着心地やはき心地の観点から着るものを選んでいました。
そのため、リラックスしたコインローファーもお気に入りだったのでしょう。
タブーを犯したヌバックの靴
当時はスーツにヌバック(スウェード)の靴を合わせるのはご法度でした。
ヌバックの靴は女性かゲイの人しか履いていなかった当時、ウィンザー公はストライプのフランネルのスーツにヌバックの靴を履いて見せたのです。
現在ではヌバックの靴は起毛したウール素材のスーツにはベストなコーディネートですが、当時としては斬新というよりむしろタブーを犯す感覚だったのではないかと思われます。
イタリアンシューズの特徴、ダブルモンクの靴
イタリアの靴の特徴である、きれいなグラデーションのダブルモンク。
実は、これもウィンザー公が特注したのが起源だとされています。
トラッドにイタリアンファッション。
ウィンザー公の影響力には本当に驚愕します。
愛用したグレンチェックのスーツ
ウィンザー公が好んで着用していたグレンチェック柄のスーツ。
実は、この柄のことをプリンス・オブ・ウェールズと呼んだりします。
ウィンザー公は王位を継承する前、プリンス・オブ・ウェールズと称されていました。
ウィンザー公がこの時代によく着用していたことから名付けられた名前です。
特にグレーのプリンス・オブ・ウェールズのスーツは、どの時代でも人気があります。
ウィンザー公まとめ
現在でも語り継がれる20世紀最大のファッションリーダー、ウィンザー公。
イギリスの上流家庭に生まれたことから不遇な幼少時代を過ごし、母性を求めるあまり女性に翻弄されながらも自由奔放に生きた結果、今のファッション界にも多大な影響を残しました。
その経歴だけではファッションの入る余地はあまりないような気もしますが、生まれつきの美貌も手伝って、そのファッションセンスが磨かれていったと推測できます。
学生時代は当時平民と呼ばれていた一般の人たちと気さくに触れ合い、ヨーロッパ屈指のプレイボーイとも称されました。
後世まで語り継がれることとなった類稀なるファッションセンスは、この時代に培われたものと思われます。
王子になってからはウォリスとの恋愛によって、ナチスとの関係や亡命など、数奇な人生をたどり始めますが、各国を転々とした際に、いった先々でそのファッションが注目され、取り入れられる結果となったのです。
ウィンザー公が、その常識に縛られない自由な発想で取り入れたファッションは、スーツに始まりウィンザーカラー、ツートンのコインローファー、開襟シャツ、グレンチェック、ダブルモンクと多彩です。
調べたらもっとたくさんあるかもしれません。
ウィンザー公は現代メンズファッションに貢献した20世紀最大の功労者として挙げるにふさわしい人物でしょう。