2020年5月25日

日本のウイスキーがお好きでしょ?

2000年代に入り、ジャパニーズウイスキーの勢いが止まりません。

2001年にニッカヰウイスキー「シングルカスク余市10年」が世界のウイスキー賞で最も権威がある「ワールド・ウイスキー・アワード」の最高賞を獲得したのを皮切りに、「響」・「山崎」・「白州」を要するサントリーやそのサントリーとならぶ総合酒造メーカーである本坊酒造。

ウイスキー造りの新興企業であるベンチャーウイスキーなどの日本のウイスキーメーカーが毎年のように世界のウイスキーコンテストの賞を受賞しています。

また、世界トップ50のバーにおけるウイスキー部門の売上1位には、ニッカウヰスキーの「ニッカ」が輝き、なんと3位「山崎」、4位「響」、5位「白州」と2位をのぞくトップ5を日本のウイスキーが独占しているのです。

日本のウイスキー造りの歴史は100年足らずと、ウイスキーの5大産地(アイルランド・スコットランド・アメリカ・カナダ・日本)の中では最も歴史が浅いのですが、今や世界から最もアツイ視線を注がれているのがジャパニーズウイスキー。

海外の観光客に「日本のおすすめは?」と聞かれて、「寿司」、「天ぷら」、「日本酒」とならび、ウイスキーは胸を張って自慢できるレベルにあるのです。

そんな日本人が知っているようであまり知らない、世界を席巻するジャパニーズウイスキーの実力。

その実力を日本のウイスキー造りの歴史とともにお伝えしていきます。

ジャパニーズウイスキーの夜明け

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA
日本にウイスキーが伝えられたのは、1853年黒船来航で有名なアメリカのペリー総督が他の洋酒とともにウイスキーを日本に持ち込んだことがはじまりです。

それからの日本はあなたもご存知のとおり、アメリカと日米和親条約を締結したのち開国、江戸幕府の倒幕といった激動の歴史をたどり、明治維新が起こります。

明治に時代に入ると、文明開化が起こり、欧米からの文化を取り入れるためにウイイスキーの輸入が1871年に開始されます。

されるのですが、当時、輸入されてきたウイスキーの多くは、アルコールに香料や色素を混ぜただけの「なんちゃってウイスキー」。

本物のウイスキーの味とは大きくかけ離れたものばかりでした。

その結果、ウイスキーの消費は伸びず、ウイスキーを含めた洋酒全体でも日本のアルコール市場の1%にも満たないような状態でした。

しかし、そんな日本のウイスキー市場の中に革命を起こしたのが、朝ドラ『マッサン』のモデルともなった竹鶴政孝とサントリー創業者の鳥井信治郎という2人の男です。

この2人が出会い、ジャパニーズウイスキーの幕が本格的に開くことになるのですが、まずは、それぞれの生い立ちからお話ししましょう。 

日本のウイスキー造りはこの2人の男が出会ったことから始まった

本物のウイスキー造りにその生涯を燃やした竹鶴政孝

引用:ニッカウヰスキー公式HPよりトリミング
引用:ニッカウヰスキー公式HPよりトリミング
マッサンとモデルとなった竹鶴政孝は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で造り酒屋の三男として生まれました。

その後、家業である酒屋を継ぐため大阪高等工業学校(現:大阪大学)醸造学科に進みます。

しかし、その頃、日本酒造りよりも洋酒造りに興味と憧れを持った竹鶴は、家業を継がずに当時、洋酒業界ではトップ企業であった大阪市の摂津酒造(現:宝ホールディングス)に就職します。

摂津酒造に入社後は希望通り洋酒の製造に配属され、もともと勉強熱心竹鶴に対して社長からの人望も厚く入社間もなくして主任技師に抜擢されました。

この時、偶然にも後のジャパニーズウイスキーを生み出す財源ともなった赤玉ポートワインの製造に携わることになります。

赤玉ポートワインとは、現在のサントリーの前身である寿屋から発売されていたワインで、製造委託されていたのが竹鶴の働く摂津酒造だったのです。

当時、赤玉ポートワインにはライバル会社から競合するワインが販売されていましたが、そのライバル会社のワインビンが販売されている店頭で次々に破裂するという事件が起こります。

競合製品はワインを製造する際、ワインを詰めるビンの中を徹底してアルコール殺菌していなかったので、ビンの中で酵母菌が発酵し、ガスが発生、破裂につながるというのが原因でした。

しかし、竹鶴が製造する赤玉ポートワインは徹底してビンを殺菌されていたため、酵母がビンの中で発酵することなく、1本たりとも破裂を起こしませんでした。

このことを機に竹鶴の酒造職人としての評判は世に知られるようになり、この後、共にウイスキー造りへの情熱を燃やす鳥井伸治郎にもその名をしっかり刻むことになります。

この当時の洋酒は、本物の酒に味を似せた模造酒がメインで本格的な純国産洋酒というのは製造されていませんでした。

これは竹鶴が働いていた摂津酒造も同じで当時造られていたウイスキーは「エチルアルコールをカラメルで着色し、エッセンスフレーバーで香りをつけただけ」という粗悪な模造品。

しかし、日英同盟が結ばれた明治35年を境に輸入洋酒の中でもウイスキーの占める割合は年々高くなり、日本人の間にも本物のウイスキーの味を知る人が増えていきます。

そんな中、摂津酒造の社長である阿部喜兵衛は、自社製品に自信を持っているものの、このまま本格ウイスキーが海外から輸入され続けられれば、模造ウイスキーではとうてい太刀打ちできないと考えていました。

そこで、摂津酒造は本格的な純国産ウイスキー造りを始める計画を立ち上げることになります。

摂津酒造の社運をかけたこの一大プロジェクトのキーマンに指名されたのが竹鶴。

阿部社長と後に本坊酒造の顧問となる岩井喜一郎専務から、単身スコットランドへウイスキー造りの技術を学ぶため海を渡ってくれないかと持ちかけられます。

もちろん、長年の夢であった洋酒造りを本格的に学べるまたとない機会でもありますし、阿部社長や岩井専務からこれほどまでに信頼されていることを考えれば、竹鶴に断るという選択肢はありませんでした。

ありませんでしたが、竹鶴には、ただ一つだけ気がかりなこともありました。

それは、故郷で自分の帰りを待つ両親のこと。

家業である造り酒屋を継ぐために大阪に出て、酒造り学び、いつかは清酒の世界に戻ってきてくれると信じている両親。

しかし、自分が進もうとしているのは、酒は酒でもウイスキーという洋酒造り。

果たして、この両親にこの留学話をどう説得するか。

広島に帰った竹鶴は両親に留学のことを伝えますが、案の定、説得することはできませんでした。

一人では留学することを両親に納得させられなかった竹鶴。

ただ、阿部社長直々に広島までやってきて、ウイスキー造りには竹鶴の力が必要なことを伝え、両親もスコットランド行きを快諾することに。

こうして、竹鶴は晴れてウイスキーの本場であるスコットランドにウイスキー造りを学ぶため、渡ることになります。

この留学中に出会ったのが、妻であるリタですね。

当時でも珍しかった国際結婚のあと、無事スコットランドからの留学を終えた竹鶴はリタを連れ、日本に帰国。

帰国後はウイスキー造りの研修結果をまとめた竹鶴ノートを専務である岩井に提出し、摂津酒造はさぁこれから純国産ウイスキーの製造に取りかかるぞ!

という矢先に第一次世界大戦が勃発。

戦後恐慌のあおりを受け、摂津酒造はウイスキー造りの資金調達が出来ず、計画は暗礁に乗り上げてしまいます。

そんな中、竹鶴は「摂津酒造がウイスキー造りを本格的に行わないなら、高い給料を払ってもらっている意味はない」と摂津酒造を退職。

その後、中学で科学を教える教師になり、ウイスキー造りとは無縁の浪人生活を送ることとなります。

日本人の口に合うウイスキー造りを目指した鳥井信治郎

引用:http://www.suntory.co.jp/company/history/
引用:http://www.suntory.co.jp/company/history/
「ジャパニーズウイスキーの父」が竹鶴政孝なら、「ジャパニーズウイスキーの生みの親」とよばれる鳥井信治郎。

鳥井は、大阪で両替商の次男として生まれ、13歳の時に薬種問屋でのちに木工用ボンドで有名なコニシの前身である小西儀助商店に丁稚に出ます。

薬種問屋ではブランデーやウイスキーといった洋酒は薬品の一種として扱われていたため、鳥井も仕事の中で洋酒に触れる機会は多く、その知識を養っていきます。

その後、絵具・染料問屋へ移ったあと、20歳で缶詰や輸入ワインの販売を手掛ける鳥井商店を設立します。

しかし、当時扱っていたスペインから輸入していた本格ワインは日本では「酸っぱい」と敬遠され、さっぱり売れません。

そこで、「日本人の口に合うワインを作ったる」と社名も寿屋に改め、爆発的な大ヒットとなり、後のウイスキー造りの資金源ともなる赤玉ポートワインを売り出します。

この赤玉ポートワインを売り出すために、広告とマーケティングの天才ともいわれた鳥井信治郎は積極的な宣伝活動を繰り広げていきます。

帝国大学医学博士の協力を得て商品の安全性や滋養面での効能を新聞広告で訴えかけたり、泥臭く赤玉ポートワインのラベルに描かれていた赤い玉がついたかんざしを芸者に配ったりと鳥井の仕掛けるマーケティングは次々と成功。

その中でも、大成功を収めたのが、松島栄美子をモデルに起用した日本初のヌードポスター。

これが大きな話題となり、最盛期には日本のワイン市場のシェアを60%も握るモンスターヒット商品となります。

赤玉ポートワイン以外にも当時の寿屋には模造種であるイミテーションウイスキーも商品ラインアップにあるのはありました。

しかし、とても本格的な輸入ウイスキーにはかなわないデキ。

赤玉ポートワインの成功の傍ら、鳥井は「洋酒の寿屋」の地位を盤石にするために洋酒の王様であるウイスキーを自社で本格的な純国産として作りたいという想いを募らせていきます。

そんな中、偶然にも鳥井を本格ウイスキー製造に踏み切らせる出来事が起こります。

ある日、鳥井は倉庫の中でリキュール用のアルコールを詰めて保管していたワインの樽を発見。

それはとても売り物にならないようなデキの悪いアルコールを樽に詰めて倉庫に保管しておいただけのものでしたが、何年も倉庫で眠っていたため、アルコールが熟成され、芳醇な香りと深い味わいのあるウイスキーに変化していたのです。

鳥井はこの液体を「トリス」と名付けて、早速、販売すると、瞬く間に完売。

これをきっかけに鳥井は本格的なウイスキー生産を目指して、蒸留所の建設を決意します。

ただし、当時の日本にウイスキー造りを知る人間なんていません。

また、スコットランドやアイルランドのような風土がなければウイスキー造りは不可能だと思われていましたので、日本の財政界や学者たちは鳥井のこの考えには大反対。

あろうどころか、寿屋社内の重役からも賛同が得られませんでした。

しかし、鳥井は、

「わしには赤玉ポートワインというメシの種があるよって、このウイスキーには儲からんでも金をつぎ込むんや。自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ」

とサントリーのDNAとなる「やってみなはれ精神」で蒸留所建設に向け、突き進みます。

ウイスキー造りの人材については、スコットランドで有名だったボーア博士を招くためにイギリスに問合せすると、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答が返ってきます。

そこで鳥井は当時の大学卒初任給が40円だった時代に、ボーア博士に払う予定だった年棒4,000円という破格の待遇で浪人だった竹鶴を寿屋に迎え入れます。

こうして、ジャパニーズウイスキー造りは夜明けを迎えることになったのです。

日本初のウイスキー「サントリー白札」の誕生

引用:http://www.suntory.co.jp/company/history/
引用:http://www.suntory.co.jp/company/history/
寿屋に入社することで、念願だったウイスキー造りにようやく取り組めるようになった竹鶴。

早速、鳥井は蒸留所の建設地としてスコットランドに風土が似ている北海道を提案します。

しかし、鳥井は、

・消費地である大阪や東京から遠く輸送のコストがかかること。
・お客さんが見学に訪れることができるような大都市近郊

という2つの理由から、大阪近辺での建設にこだわりました。

これは後から見ると、鳥井の経営者としての先見の明が光る結果といえますね。

そこでウイスキー造りには欠かせない良質な水が豊富にあり、スコッチの名産地ローゼスの風土にも近く霧が多いという条件から蒸留所の建設地を大阪府三島郡にある山﨑に決定します。

こうして、1924年11月11日。

遂に日本初のウイスキー蒸留所「山崎蒸留所」が誕生します。

だがしかし。

またもや竹鶴と鳥井を悩ます問題が勃発します。

それは酒税の問題でした。

当時は製造時に出来上がった酒量に応じて課税される造石(ぞうこく)税。

長期熟成が欠かせないウイスキーは、倉庫で寝かしている間に蒸発などで分量が年2%減るため、この課税方式はとても不利です。

経営の観点から見ても、いつ売りに出せるかも分からないウイスキーなのに税金だけが持っていかれるのはたまったものではありません。

この時、鳥井は政財界のコネクションをフルに限活かし、また、竹鶴は大阪税務監督局に通いつめ、出荷時に庫から出して瓶詰めする際に課税する「庫出し税方式」を認めさせます。

しかし、それでもまだ日本初のウイスキーはすんなりと生まれません。

理想のウイスキーを作るためには最低5年は必要と思っている職人肌の竹鶴と、いち早く日本初のウイスキーを市場に出したい寿屋社内で対立が勃発します。

鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造させたかったのですが、金ばかりかかる山﨑蒸留所は出資者からもやり玉に挙げられ、最終的には竹鶴が折れるかたちで蒸留所建設から4年後の1929年4月1日に日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」が発売されました。

この名前は寿屋の看板商品である赤玉ポートワインの赤玉が太陽(=サン)のイメージだったことと、鳥井のトリを取ってサントリーと名付けられ、今では社名になっていますね。

しかし、苦難の末、誕生したこのサントリー白札。

まったく日本人には受け入れてもらえず、さっぱり売れません。

その理由は、本来なら10年先の商品化を目指して仕込みをしていくのがウイスキー造りのセオリーですが、思ったような熟成年数をかけることができなかったこと。

それまでの日本人は模造ウイスキーに慣れ親しんでいたため、竹鶴が目指したスコッチウイスキー特有の「スモーク・フレーバー」は焦げ臭いといって受け入れられなかったことが大きな原因でした。

そこで、鳥井は日本人の口に合うウイスキー造りを竹鶴に進言しますが、あくまでスコットランドと同じ「本物」にこだわる竹鶴。

こうした経があって、竹鶴は寿屋から身を引くことを決意します。

その後、竹鶴は現在のニッカウヰスキーとなる大日本果汁株式会社を北海道余市の地で設立。

サントリーとともにジャパニーズウイスキーをけん引する存在となっていきます。

ジャパニーズウイスキーを支える蒸留所を紹介

ジャパニーズウイスキーの聖地【山﨑蒸留所】

引用:http://www.suntory.co.jp/factory/yamazaki/index.html
引用:http://www.suntory.co.jp/factory/yamazaki/index.html
鳥井と竹鶴の念願がつまったジャパニーズウイスキーの聖地である山﨑蒸留所。

山﨑という地は、織田信長を討った明智光秀とその信長の仇を討つために立ち上がった豊臣秀吉とが戦った山﨑の戦いの舞台となったことでも有名です。

桂川・宇治川・木津川と3つの川が合流する場所でもあり、古くから名水の地として知られ、茶道を究めたあの千利休もその良質な水に惚れ、この地に茶室を設けて、お茶を振る舞っていたほど。

周りは山に囲まれ、湿潤で温暖な気候の上、原酒のムダな蒸発を防ぎウイスキーの熟成に適した湿度を生み出す霧が発生しやすい風土はウイスキー造りには最適の土地。

蒸留所を代表するシングルモルトである『山﨑』、ブレンデッドウイスキーの最高峰である『響』といった日本を代表する銘酒を世に送り出しています。

竹鶴が追い求めた理想郷【余市蒸留所】

引用:http://www.nikka.com/distilleries/yoichi/gallery/
引用:http://www.nikka.com/distilleries/yoichi/gallery/
「本場のスコッチを日本でも造りたい」

そんな竹鶴政孝の理想を実現したのが、北海道余市町に建てられたニッカウヰスキーの余市蒸留所。

そこは海に近く山や川にも囲まれ、雪が多く水が豊かと竹鶴が思い描くウイスキー造りの桃源郷のような場所でした。

この地で竹鶴は、ウイスキー造りに熱い情熱を注ぎ込んでいくことになります。

一歩足を踏み入れれば、スコットランドに迷いこんだかのような見事な石造りの建物は国の登録有形文化財にも認定され、1934年の建設当時とほぼ変わらぬ姿で今もたたずんでいます。

イギリスの外務大臣であったヒュームは「ひとりの頭の良い青年が、一本の万年筆とノートでウイスキー造りの秘密を盗んでいった」と竹鶴を称えましたが、そのスコットランド留学中に学んだことを克明に書き記した「竹鶴ノート」。

それを元に本場のウイスキー造りを忠実に実践した蒸留法は、今ではスコットランドでも見られることはなく、おそらく世界でも余市だけがその蒸留法をいまだに取り入れています。

余市蒸留所が持つ独特の力強く重みのある味と香ばしさはその昔ながらのウイスキー造りに秘密があるといえるでしょう。

竹鶴ノートのDNAはココにも【信州マルス蒸留所】

引用:http://www.hombo.co.jp/factory/shinshu.html
引用:http://www.hombo.co.jp/factory/shinshu.html
鹿児島で焼酎を造る本坊酒造のウイスキー造りは1949年にはじまり、良質の水を求めて1985年中央アルプス駒ケ岳へ。

駒ケ岳の伏流水と涼しい気候の中で、「いつか日本の風土を生かした本物のウイスキー造りを」と考えた本坊酒造のウイスキー造りが始まります。

しかし、その夢の実現は遠く険しいものでした。

ウイスキー需要の低迷のあおりを受け、1992年にはウイスキーの蒸留を休止する事態に陥ってしまいます。

それから長い年月を経て2011年、遂に本坊酒造はマルスウイスキーの蒸留を再開。

それからわずか2年後の2013年には世界一のウイスキーに与えられる称号「ワールド・ウイスキー・アワード」を受賞することになり、瞬く間にジャパニーズウイスキーを支える存在となりました。

マルスウイスキーの原点は、竹鶴政孝の上司でもあった岩井喜一郎。

岩井は竹鶴から受け取った「竹鶴ノート」をもとに本坊酒造で岩井なりの国産本格派ウイスキー造りをスタートしていました。

岩井が目指したのも正統派スコッチウイスキーであり、その技術は今も信州マルス蒸留所の原点になっています。

ベンチャーながらも実力は本物【秩父蒸留所】

引用:公式Facebookより
引用:公式Facebookより
ベンチャーウイスキーの名を聞いてピンときたあなたはかなりのウイスキー通なのでは?

サントリーやニッカといった大企業ではなく、従業員わずか7名という小さな酒造会社がウイスキーを造っているのは日本国内でもごくわずか。

しかし、そのウイスキー造りの実力は本物で、2006年にはイギリスのウイスキー専門誌である「ウイスキーマガジン」にてジャパニーズモルトで最高点を獲得。

ウイスキーの世界一を決めるワールド・ウイスキー・アワードでは2007年以降5年に渡りカテゴリー別の日本一に輝いています。

ベンチャーウイスキーの歴史は創業から10年を少し超えたばかりとまさにベンチャーのウイスキーメーカー。

創業者である肥土伊知郎氏の実家である東亜酒造は経営悪化にともない、関西にある酒造メーカーの傘下に入ることが決まりました。

しかし、売却先の酒造メーカーはウイスキー事業からの撤退を決め、それまで20年以上に渡って東亜酒造が造り続けていたウイスキーの原酒を廃棄しようとします。

しかし、我が子同然ともいえる原酒をそう簡単に捨てるのは忍びない。

ただ、自分たちの一存ではもうなんともしようがない。

それを救うために立ち上がったのが肥土氏。

蒸留所を1から建設するとなると数億円というお金が必要になりますが、土地は埼玉県から借り受け、蒸留所の建設費用は親戚から支援を受け、2004年ベンチャーウイスキーを設立します。

ただ資金がない中でも、ウイスキー造りには徹底的にこだわり、ウイスキー製造設備は本場スコットランドのメーカーから直輸入。

樽にはベンチャーウイスキー独特のオリエンタルなお香のような香りを生み出す日本古来の木材であるミズナラを使用しています。

良質なウイスキーを作るためには、設備はもちろん長い熟成時間というのが必要です。

それにも関わらず、まだ歴史がはじまったばかりである秩父蒸留所のウイスキーが世界から評価されるのは奇跡的なこと。

ここから長い時間をかけて生み出されたウイスキーがどれほどのモノになっていくのか…。

今から楽しみでもある蒸留所です。

まとめ

引用:http://photo-chips.com/db/database.cgi?cmd=dp&num=729
引用:http://photo-chips.com/db/database.cgi?cmd=dp&num=729
竹鶴政孝と鳥井信治郎。

日本のウイスキー造りはこの2人の男が出会ったことからその歴史は始まりました。

本場スコットランドのような本物のウイスキーを目指した竹鶴。

日本人の舌に合い、誰からも好まれるウイスキーを目指した鳥井。

最終的に2人は袂を分かつことにはなりましたが、それぞれの理想を追い求めた結果として今のように世界から絶賛されるジャパニーズウイスキーの発展につながったことは間違いありません。

また、彼らが起こしたサントリー、ニッカといったウイスキーメーカーだけではなく、本坊酒造、ベンチャーウイスキーといった世界から注目を浴びるウイスキーメーカーも誕生しています。

こうした背景には、湿潤で寒暖の差があり、水がキレイといった豊かな日本の自然もありますが、マジメにモノ作りに取り組む日本人の気質にもマッチしているのでしょう。

日本酒や焼酎だけでなく、クールジャパンとして世界に誇る日本のウイスキー。

たまにはそんな琥珀色を片手に乾杯というのも悪くありませんね。

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